先日。
「ヒロシマナガサキ」
というドキュメンタリー映画をTVで見てしまいました。
夏ならではの雷雨の多さに辟易しながら、雷が怖くてたまらないぬんを抱っこしながら眠れずに、TVをつけると始まっていたのがこのフィルムで。
何気なくつけたはいたのだけれど、見始めてすぐに何が題材になっているのかは分かり、その内容の重さも感じることが出来て・・・.
決して軽い気持ちで見られる内容ではないので、正直、寝る前に見るには重過ぎる内容だったので、見るのを辞めたほうがいいのかもしれない・・・そう思いながらも、見てしまったのです。
雷が怖くて眠れないぬんをあやしているつもりが、いつのまにか、流れている映像と内容が恐ろしくて私自身が眠れなくなってしまいました。・・・
それでも。
目をそらさずに見てしまったのは何故だったのでしょう。
このドキュメンタリーフィルムの核となっているのは、日系3世のアメリカ人監督の14名の実際のヒロシマ・ナガサキでの被爆者達へのインタビューと、原爆投下に関係した4名の米国人のインタビューです。
正直言って、日本国内での教育しか受けていなくて、歴史に関しても、日本サイドの書物しか読んだことの無い私から見れば。
戦時下で、米軍が敵国日本に対しして実際に行ったと言われていることを考えれば、その最たる被害者である被爆者の方々が、米国籍である監督のインタビューに応じたことが驚きです。
けれど、それぞれの被爆者の方々は、自分達をこれだけ辛い目にあわせた対象への怒りをあらわにするわけでも無く、敗戦国であることを声高に訴えるでもなく、天皇の名のもとの軍統治国家であった事を恨むでもなく・・・、だた、淡々と、事実だけを述べます。
ただ、静かに、わが身に起こった恐ろしい現実だけを述べています。
戦後半世紀以上を経て、彼らの中には、過去の出来事への復讐心や怒り(だけ)ではなくて、戦争を生き残った自分達の負った業を果たし、後世に伝える事で、その身の存在意義を有らしめたいという気持ちもあったのではないかと思われます・・・。
しかし、たとえそこまで達観できたとしても、そこまでに至るにはどれだけの苦悶を乗り越えたのかは、想像に難くありません・・・。
このフィルムの始まりは・・・ヒロシマに原爆が落とされた日付さえ知らない、現代の若者の映像からスタートします。
そして、被爆者である人々が、各々の、被爆前の、(戦時下であっても、五体満足で健康であった)若かりし頃のモノクロの写真を持って、現在暮らしている、普通の町並みの中から、過去を振り返り、語り始めます。
「はだしのゲン」で有名な作家の方もこのフィルムに、インタビューされる側として出ています。
彼が別に述べる、「憲法第九条は戦争・被爆で命を落とした人々が、命がけで後世に残しえてくれたもの。これだけは失ってはならない」という意の言葉の重さを実感せずにはいられません。
私は、恥ずかしながら、中学校の授業で習った憲法第九条の意味をこのときほど実感したことはありません。
このフィルムを見終わって思うのは、一体、私が受けてきた教育がベストだったのかどうか。
勿論、先生方に教えてもらった内容的に間違ってはいなかったかも知れないけれど、彼らが教育者として最善を尽くしてきてくれたのだろうか。
本当の史実を知る「意味」を教えてくれていたのかどうか・・・。
そこには正直疑問が残るのです。
きっと、先生だって、サラリーマンで、自分の生活で精一杯だったのかもしれない。
やる気の無い生徒たちに事実を叩き込み覚えさせるだけで精一杯だったのかもしれない。
けれど、だとしたら、誰が、いつ、どうやってその重大さを教えてくれるのだろう。
そこで教えてくれなかったら、私達は、いつその意味を学ぶ機会を得るべきなのだろう。
私がもっと賢くて先見の目のある生徒だったら、その当時に自ら深く掘り下げて、自ら学んで、何かを感じたのだろうか、そうあるべきだったのだろうか。
私は教育者になったことも無いのですが、今になってやっと、「人は何故過去を学ぶのか、なぜ理解しなくてはならないのか」を、教える事の大切さを思うのです。
大げさな言い方をするならば、全世界が戦争・原爆・被爆の、痛ましい細部から目をそらそうとしていて。
そして、半世紀経った今でもまだそらし続けている。
取り残された極わずか残された被害者だけが、声を上げている。
未熟な私達は、過去から学習することも出来ず、自分に何が出来るのかわからずにいて。
(今でも相変わらず、無力なのですが)、大人たちが、子供を本気で教育する気が有るならば。
過去を学び、、「何か、小さくても自分に出来ることがあるのならば」、と普通に、当たり前に思わせる位の教えを与えて欲しい。
ただ、歴史のあるお寺を意味無く歩いて回るだけが修学旅行ではないと思うのです。。。
公立でも保護者はそれなりの教育費を捻出しているはずなのですが・・・。
学校教育の問題だけではなく、何も知らない子供に接する機会のある大人がそういう自覚をもつ必要があると思うのですが。
勝手に理想を求めすぎなのでしょうか・・・、分かりません。
さて・・・。
このフィルムでは、被爆者へのインタビューが始まり、時間は彼らの記憶を頼りに63年前にさかのぼります。
「(原爆が落ちた後、防空壕から出て、気が付くと)目玉が飛び出して、鼻のところまでぶら下がって落ちた人が、歩いていた」
「子供をおぶったおばさんが歩いていたけれど、その子供には頭が無かった」
「燃え盛る火の中で、助けてと泣き叫ぶ弟の声を聞いたけれど・・・助けらなかった」
「物心ついたときからずっと戦時下だったから、子供心に幸せだったり楽しかった思い出は一度も無い」
「やっと見つけたおかあちゃんらしき黒焦げの遺体に手を触れたら、粉々の灰になって崩れたのが、60年経った今でも忘れられない」
「顔がパンパンに膨れて、黒こげて、手足の皮膚が破けてそこから体液が流れ出て・・・とても弟だとは認めたくないけれど弟で。。。その弟が、最後に母親に会えて、(死んで)亡くなったのが・・・何よりも良かったと思う・・・」
「長崎の大浦天主堂は東洋一のカトリックの総本山だったのに、そこに(おなじキリスト教信者であると思われる米人から)原爆が落とされたことが信じられない。
そこは、当時の日本のカトリックの人にとって聖地で、カトリック信者が集まっていた場所でそんなこと(原爆投下)が起こるとはまさか信じていなかった。神がいるのならなぜこんなことが起こるのか・・・理解できなかった。
(被爆後に、)死にたくても、カトリックで自殺は許されていなくて、死ねなかった。苦しい中で生きた」
「被爆経過の実験台になった身体をかかえて60年以上も差別の中で生きてきて、今でも治療を続けている。苦しい。それでも、この事実を伝えるためだけに生きている」
「今でも、(ケロイドの後の残った)自分の姿を鏡で見ることが辛いし、ひとから(哀れみと偏見の)目で見られるのも辛い」
「全員が瀕死のように見える中で、少しでも望みある人を助けるために、生きている人と死んでいる人をつつきながら調べた。
医師である自分が、被爆者が何で死んでいくのか分からないのが怖かった。明らかに助からない人だけではなくて、外見上は健康に見えた人さえ(後に分かった)原爆症で死んでいった。
自分に明らかな死相が見えているのに、わが子を救って欲しいと懇願する母親の気持ちが辛かった」
こんな告白のさなかにも、被爆者たちの描いた絵画が挿入されるのです。
「タスケテー」
「オカアチャンー、イタイヨー」
「ギャー」
「ミズー、イタイヨー、ミズー」
絵画にはそんな苦しげな言葉か書かれています。
絵画にそのような言葉が挿入されるのが不思議なのだけれど、それが、実際に現場で数多く聞かれた言葉なのだと思う。
その言葉を書かずには居られない、心からの叫びだったのだろうと思う。
被爆者達の描く、真っ赤に、もしくは真っ黒にただれた人々が、戦火の中をさまよい逃げ惑う絵を見て。
苦しげに叫びながらも、明らかに助からないだろう人々にの絵を見ていながら、あまりにも辛くて。
その絵を見ながら、むごさに目をそらしつつ、
「あぁ・・・なんて酷いんだろう。
これは写真を見るよりも、被爆者達が見た実際を表していて、そこに直面した人々の想いを表していて、辛い・・・これ以上見たくない」
と思ったのですが・・・。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
ごめんなさい。
一通りの被爆絵画が映し出された後に、画面に出てきた写真達を見て、私は前言撤回しました。
事実をそのまま写した写真達の方が、どれだけ残酷な現実を写し取っていたか。
被爆者達の絵を見て辛い、と思った、私自身の甘さを知ったか。
写真がどれだけむごい、見たくない事実を写していたか。
黒焦げに焼けた少女が転がっていて・・・、その、もう死んでいる少女の目が、私を見ているような気がして怖くなって目をそらすと。
その少女の姿が、TVの画面を媒体にして我が家の窓ガラスにぼんやりと映っていて。
(写っているような気がしただけなのかもしれませんが)
それはもう恐ろしくてたまらなくななりました。
その後眠ろうと思っても、その顔が思い出されて、なかなか眠れませんでした。
絵が恐ろしいなんて。。。
とんでもない。
写真はもっと現実を表しているのだろうし、事実はもっともっと、もっと恐ろしいものだったのでしょう。
その現場の臭いや、温度や、狂気や・・・。
今の私にはそれらを想像することをすら出来ない、とてつもなく恐ろしい現実だったのだろうと思われます。
焼けただだれ、皮膚が溶けてズル剥けの人を見ても、「恐ろしい」という感覚さえ芽生えてこないくらい必死の、極限の状態だったのだろうと思います。
今、戦火を体験した人に大して、ごくありきたりな、使い臥された表現でしか述べることが本当に申し訳なく思います。
私は、このフィルムを見た後の、自分の気持ちをまとめることすら出来ませんでした。
今でも、書きながらもまとまりません。
いずれの戦争の発端に対しても、原爆投下に対しても、自分の立場だけで可否を述べるのは非常に難しいことだけれど。
「仕方ない」
そんな言葉は、いかなる人でも、その実体験をしていない人が、いかにも偉そうに述べるべき言葉ではないと、私は思います。
ましてや、公の場で、公人が述べる言葉ではないと思う。
そして。。。
やはり悲しかったのはこのフィルムで、原爆投与に関係した米人からは、「後悔」の念は全く語られなかったこと。
「戦争の早期解決に対してすべきことをした。逆に被害者数をあれだけで止めたことで感謝されている。」と述べるにとどまったこと。
彼の地では今でもそういう教育がなされているということ。
別にわざとらしい謝罪を聞きたかったわけではないけれど。
心ある人ならば、個人レベルではどこかで自責の念にとらわれれているのではないかと思っていた、私の考えとはちがっていました。
私の安易な、理想的な思惑は甘かったのです。
63年という時間すらもその温度差を埋めるには足らないのです。
この部分は、私の極親しい人、身内の人間でも意見が分かれるところで、その言い争いをすることすら辛くて避けたくなる部分です。
いくら私達が言い争っても、被害者の痛みを本当に知ることは出来ないのですから。
戦時下において、我々日本人も、かなり、かなり酷いことを行ってきてただろうし、いまだその傷を癒しきれてはいないし、今後どんなにお金や時間を積んでも癒すことは出来ないでしょう。
おそらく、63年前に、実際に原爆投下を行って、「全く後悔していない」と述べる人間も、その本当の政治的狙いや影響力を知らなかったと思われます。
今、彼らがわざわざ表立って自責の念を表すことは、勝戦国である彼らの歴史とプライドを変に刺激してしまうのかも知れず。
(私の希望的観測で、)もしも、原爆投下に直接関わった彼らに自責の念があったとしても、彼らの心の底に眠らせた思いは、もはや棺桶まで持ってゆくつもりなのかもしれません。
けれど、63年経った今でも、被爆者はその後遺症から逃れられずにいるのです。
もしも、それが自分の息子・娘だったら、妻だったら、夫だったら、同じことが言えるのでしょうか。
二代三代、もしかすると四代にまで渡るかもしれない、被爆の影響におびえている人に、同じ事を面と向かって言えるのでしょうか・・・。
子供を抱きその成長を待つことが恐怖になりうる人生をもつ人に(もしくは被爆の影響でその喜びを捨てた人に)、同じことが言えるのでしょうか。
結局、どちらが正しいとも判断できないのが事実です。
けれど、自分達のした事が、どれだけ受け入れがたくても、目をそらさないで欲しい。
(私たち自身のことも含めて・・・。)
今なお、核による新たな惨劇が生まれんとしている中で、(これもある意味、残酷な言い方ですが)日系アメリカ人監督の、米日どちらのサイドに立つでもなく、ただ事実だけを浮き彫りにした偉業に、敬服するばかりです。
戦争・原爆・被爆・孤児・・・
そこに関わった、誰から見ても、グロテスクで、辛く悲しい出来事であるのは事実。
過去に起こったことの是非や、可否を問うことに意味があるのではなく。
過去に、これだけの、悲惨なことが起こっているのに。
そこから何も学べずに、同じこと、もしくはそれ以上に残酷な事を行おうとする、流れをがある中で。
その流れを止めるべく、立ち上がり、命を削ってまで尽力した、協力した人々の、小さな声の集合体に、だれかが耳を傾けて、結果的にそれが大きな環になることを切に願うばかりです。
そうでなければ。
今後、子供を生み育てるべき幸せな未来なんて、とてもじゃないけれど、見えてきません。
戦争については、これが全てではないですが。
ごく一部を切り取ったに過ぎないのですが。
まだこのフィルムを見たことが無い人がいるのならば、見るに値すると思われます。
すごく辛く重い内容だけれど、出来ることなら、家族で見て、一年に一度くらい、この日くらいは、真面目に真剣に考えても良いのではなかろうかと思います。
私にこの内容を理解できる子供が居たならば。
その子がどう感じるかは分からないけれど、怖がっても見せるべきだと、思います。
「ヒロシマナガサキ」
というドキュメンタリー映画をTVで見てしまいました。
夏ならではの雷雨の多さに辟易しながら、雷が怖くてたまらないぬんを抱っこしながら眠れずに、TVをつけると始まっていたのがこのフィルムで。
何気なくつけたはいたのだけれど、見始めてすぐに何が題材になっているのかは分かり、その内容の重さも感じることが出来て・・・.
決して軽い気持ちで見られる内容ではないので、正直、寝る前に見るには重過ぎる内容だったので、見るのを辞めたほうがいいのかもしれない・・・そう思いながらも、見てしまったのです。
雷が怖くて眠れないぬんをあやしているつもりが、いつのまにか、流れている映像と内容が恐ろしくて私自身が眠れなくなってしまいました。・・・
それでも。
目をそらさずに見てしまったのは何故だったのでしょう。
このドキュメンタリーフィルムの核となっているのは、日系3世のアメリカ人監督の14名の実際のヒロシマ・ナガサキでの被爆者達へのインタビューと、原爆投下に関係した4名の米国人のインタビューです。
正直言って、日本国内での教育しか受けていなくて、歴史に関しても、日本サイドの書物しか読んだことの無い私から見れば。
戦時下で、米軍が敵国日本に対しして実際に行ったと言われていることを考えれば、その最たる被害者である被爆者の方々が、米国籍である監督のインタビューに応じたことが驚きです。
けれど、それぞれの被爆者の方々は、自分達をこれだけ辛い目にあわせた対象への怒りをあらわにするわけでも無く、敗戦国であることを声高に訴えるでもなく、天皇の名のもとの軍統治国家であった事を恨むでもなく・・・、だた、淡々と、事実だけを述べます。
ただ、静かに、わが身に起こった恐ろしい現実だけを述べています。
戦後半世紀以上を経て、彼らの中には、過去の出来事への復讐心や怒り(だけ)ではなくて、戦争を生き残った自分達の負った業を果たし、後世に伝える事で、その身の存在意義を有らしめたいという気持ちもあったのではないかと思われます・・・。
しかし、たとえそこまで達観できたとしても、そこまでに至るにはどれだけの苦悶を乗り越えたのかは、想像に難くありません・・・。
このフィルムの始まりは・・・ヒロシマに原爆が落とされた日付さえ知らない、現代の若者の映像からスタートします。
そして、被爆者である人々が、各々の、被爆前の、(戦時下であっても、五体満足で健康であった)若かりし頃のモノクロの写真を持って、現在暮らしている、普通の町並みの中から、過去を振り返り、語り始めます。
「はだしのゲン」で有名な作家の方もこのフィルムに、インタビューされる側として出ています。
彼が別に述べる、「憲法第九条は戦争・被爆で命を落とした人々が、命がけで後世に残しえてくれたもの。これだけは失ってはならない」という意の言葉の重さを実感せずにはいられません。
私は、恥ずかしながら、中学校の授業で習った憲法第九条の意味をこのときほど実感したことはありません。
このフィルムを見終わって思うのは、一体、私が受けてきた教育がベストだったのかどうか。
勿論、先生方に教えてもらった内容的に間違ってはいなかったかも知れないけれど、彼らが教育者として最善を尽くしてきてくれたのだろうか。
本当の史実を知る「意味」を教えてくれていたのかどうか・・・。
そこには正直疑問が残るのです。
きっと、先生だって、サラリーマンで、自分の生活で精一杯だったのかもしれない。
やる気の無い生徒たちに事実を叩き込み覚えさせるだけで精一杯だったのかもしれない。
けれど、だとしたら、誰が、いつ、どうやってその重大さを教えてくれるのだろう。
そこで教えてくれなかったら、私達は、いつその意味を学ぶ機会を得るべきなのだろう。
私がもっと賢くて先見の目のある生徒だったら、その当時に自ら深く掘り下げて、自ら学んで、何かを感じたのだろうか、そうあるべきだったのだろうか。
私は教育者になったことも無いのですが、今になってやっと、「人は何故過去を学ぶのか、なぜ理解しなくてはならないのか」を、教える事の大切さを思うのです。
大げさな言い方をするならば、全世界が戦争・原爆・被爆の、痛ましい細部から目をそらそうとしていて。
そして、半世紀経った今でもまだそらし続けている。
取り残された極わずか残された被害者だけが、声を上げている。
未熟な私達は、過去から学習することも出来ず、自分に何が出来るのかわからずにいて。
(今でも相変わらず、無力なのですが)、大人たちが、子供を本気で教育する気が有るならば。
過去を学び、、「何か、小さくても自分に出来ることがあるのならば」、と普通に、当たり前に思わせる位の教えを与えて欲しい。
ただ、歴史のあるお寺を意味無く歩いて回るだけが修学旅行ではないと思うのです。。。
公立でも保護者はそれなりの教育費を捻出しているはずなのですが・・・。
学校教育の問題だけではなく、何も知らない子供に接する機会のある大人がそういう自覚をもつ必要があると思うのですが。
勝手に理想を求めすぎなのでしょうか・・・、分かりません。
さて・・・。
このフィルムでは、被爆者へのインタビューが始まり、時間は彼らの記憶を頼りに63年前にさかのぼります。
「(原爆が落ちた後、防空壕から出て、気が付くと)目玉が飛び出して、鼻のところまでぶら下がって落ちた人が、歩いていた」
「子供をおぶったおばさんが歩いていたけれど、その子供には頭が無かった」
「燃え盛る火の中で、助けてと泣き叫ぶ弟の声を聞いたけれど・・・助けらなかった」
「物心ついたときからずっと戦時下だったから、子供心に幸せだったり楽しかった思い出は一度も無い」
「やっと見つけたおかあちゃんらしき黒焦げの遺体に手を触れたら、粉々の灰になって崩れたのが、60年経った今でも忘れられない」
「顔がパンパンに膨れて、黒こげて、手足の皮膚が破けてそこから体液が流れ出て・・・とても弟だとは認めたくないけれど弟で。。。その弟が、最後に母親に会えて、(死んで)亡くなったのが・・・何よりも良かったと思う・・・」
「長崎の大浦天主堂は東洋一のカトリックの総本山だったのに、そこに(おなじキリスト教信者であると思われる米人から)原爆が落とされたことが信じられない。
そこは、当時の日本のカトリックの人にとって聖地で、カトリック信者が集まっていた場所でそんなこと(原爆投下)が起こるとはまさか信じていなかった。神がいるのならなぜこんなことが起こるのか・・・理解できなかった。
(被爆後に、)死にたくても、カトリックで自殺は許されていなくて、死ねなかった。苦しい中で生きた」
「被爆経過の実験台になった身体をかかえて60年以上も差別の中で生きてきて、今でも治療を続けている。苦しい。それでも、この事実を伝えるためだけに生きている」
「今でも、(ケロイドの後の残った)自分の姿を鏡で見ることが辛いし、ひとから(哀れみと偏見の)目で見られるのも辛い」
「全員が瀕死のように見える中で、少しでも望みある人を助けるために、生きている人と死んでいる人をつつきながら調べた。
医師である自分が、被爆者が何で死んでいくのか分からないのが怖かった。明らかに助からない人だけではなくて、外見上は健康に見えた人さえ(後に分かった)原爆症で死んでいった。
自分に明らかな死相が見えているのに、わが子を救って欲しいと懇願する母親の気持ちが辛かった」
こんな告白のさなかにも、被爆者たちの描いた絵画が挿入されるのです。
「タスケテー」
「オカアチャンー、イタイヨー」
「ギャー」
「ミズー、イタイヨー、ミズー」
絵画にはそんな苦しげな言葉か書かれています。
絵画にそのような言葉が挿入されるのが不思議なのだけれど、それが、実際に現場で数多く聞かれた言葉なのだと思う。
その言葉を書かずには居られない、心からの叫びだったのだろうと思う。
被爆者達の描く、真っ赤に、もしくは真っ黒にただれた人々が、戦火の中をさまよい逃げ惑う絵を見て。
苦しげに叫びながらも、明らかに助からないだろう人々にの絵を見ていながら、あまりにも辛くて。
その絵を見ながら、むごさに目をそらしつつ、
「あぁ・・・なんて酷いんだろう。
これは写真を見るよりも、被爆者達が見た実際を表していて、そこに直面した人々の想いを表していて、辛い・・・これ以上見たくない」
と思ったのですが・・・。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
ごめんなさい。
一通りの被爆絵画が映し出された後に、画面に出てきた写真達を見て、私は前言撤回しました。
事実をそのまま写した写真達の方が、どれだけ残酷な現実を写し取っていたか。
被爆者達の絵を見て辛い、と思った、私自身の甘さを知ったか。
写真がどれだけむごい、見たくない事実を写していたか。
黒焦げに焼けた少女が転がっていて・・・、その、もう死んでいる少女の目が、私を見ているような気がして怖くなって目をそらすと。
その少女の姿が、TVの画面を媒体にして我が家の窓ガラスにぼんやりと映っていて。
(写っているような気がしただけなのかもしれませんが)
それはもう恐ろしくてたまらなくななりました。
その後眠ろうと思っても、その顔が思い出されて、なかなか眠れませんでした。
絵が恐ろしいなんて。。。
とんでもない。
写真はもっと現実を表しているのだろうし、事実はもっともっと、もっと恐ろしいものだったのでしょう。
その現場の臭いや、温度や、狂気や・・・。
今の私にはそれらを想像することをすら出来ない、とてつもなく恐ろしい現実だったのだろうと思われます。
焼けただだれ、皮膚が溶けてズル剥けの人を見ても、「恐ろしい」という感覚さえ芽生えてこないくらい必死の、極限の状態だったのだろうと思います。
今、戦火を体験した人に大して、ごくありきたりな、使い臥された表現でしか述べることが本当に申し訳なく思います。
私は、このフィルムを見た後の、自分の気持ちをまとめることすら出来ませんでした。
今でも、書きながらもまとまりません。
いずれの戦争の発端に対しても、原爆投下に対しても、自分の立場だけで可否を述べるのは非常に難しいことだけれど。
「仕方ない」
そんな言葉は、いかなる人でも、その実体験をしていない人が、いかにも偉そうに述べるべき言葉ではないと、私は思います。
ましてや、公の場で、公人が述べる言葉ではないと思う。
そして。。。
やはり悲しかったのはこのフィルムで、原爆投与に関係した米人からは、「後悔」の念は全く語られなかったこと。
「戦争の早期解決に対してすべきことをした。逆に被害者数をあれだけで止めたことで感謝されている。」と述べるにとどまったこと。
彼の地では今でもそういう教育がなされているということ。
別にわざとらしい謝罪を聞きたかったわけではないけれど。
心ある人ならば、個人レベルではどこかで自責の念にとらわれれているのではないかと思っていた、私の考えとはちがっていました。
私の安易な、理想的な思惑は甘かったのです。
63年という時間すらもその温度差を埋めるには足らないのです。
この部分は、私の極親しい人、身内の人間でも意見が分かれるところで、その言い争いをすることすら辛くて避けたくなる部分です。
いくら私達が言い争っても、被害者の痛みを本当に知ることは出来ないのですから。
戦時下において、我々日本人も、かなり、かなり酷いことを行ってきてただろうし、いまだその傷を癒しきれてはいないし、今後どんなにお金や時間を積んでも癒すことは出来ないでしょう。
おそらく、63年前に、実際に原爆投下を行って、「全く後悔していない」と述べる人間も、その本当の政治的狙いや影響力を知らなかったと思われます。
今、彼らがわざわざ表立って自責の念を表すことは、勝戦国である彼らの歴史とプライドを変に刺激してしまうのかも知れず。
(私の希望的観測で、)もしも、原爆投下に直接関わった彼らに自責の念があったとしても、彼らの心の底に眠らせた思いは、もはや棺桶まで持ってゆくつもりなのかもしれません。
けれど、63年経った今でも、被爆者はその後遺症から逃れられずにいるのです。
もしも、それが自分の息子・娘だったら、妻だったら、夫だったら、同じことが言えるのでしょうか。
二代三代、もしかすると四代にまで渡るかもしれない、被爆の影響におびえている人に、同じ事を面と向かって言えるのでしょうか・・・。
子供を抱きその成長を待つことが恐怖になりうる人生をもつ人に(もしくは被爆の影響でその喜びを捨てた人に)、同じことが言えるのでしょうか。
結局、どちらが正しいとも判断できないのが事実です。
けれど、自分達のした事が、どれだけ受け入れがたくても、目をそらさないで欲しい。
(私たち自身のことも含めて・・・。)
今なお、核による新たな惨劇が生まれんとしている中で、(これもある意味、残酷な言い方ですが)日系アメリカ人監督の、米日どちらのサイドに立つでもなく、ただ事実だけを浮き彫りにした偉業に、敬服するばかりです。
戦争・原爆・被爆・孤児・・・
そこに関わった、誰から見ても、グロテスクで、辛く悲しい出来事であるのは事実。
過去に起こったことの是非や、可否を問うことに意味があるのではなく。
過去に、これだけの、悲惨なことが起こっているのに。
そこから何も学べずに、同じこと、もしくはそれ以上に残酷な事を行おうとする、流れをがある中で。
その流れを止めるべく、立ち上がり、命を削ってまで尽力した、協力した人々の、小さな声の集合体に、だれかが耳を傾けて、結果的にそれが大きな環になることを切に願うばかりです。
そうでなければ。
今後、子供を生み育てるべき幸せな未来なんて、とてもじゃないけれど、見えてきません。
戦争については、これが全てではないですが。
ごく一部を切り取ったに過ぎないのですが。
まだこのフィルムを見たことが無い人がいるのならば、見るに値すると思われます。
すごく辛く重い内容だけれど、出来ることなら、家族で見て、一年に一度くらい、この日くらいは、真面目に真剣に考えても良いのではなかろうかと思います。
私にこの内容を理解できる子供が居たならば。
その子がどう感じるかは分からないけれど、怖がっても見せるべきだと、思います。
極、極一部の緩慢な傲慢な職員に物申したい。
あの。
貴方のお給料の一部は、わたくし達利用者が支払っている(もしくは支払っていた)税金・保険金等の一部から成り立っているわけで。
貴方が使っている机もパソコンも光熱費も、文房具一つでさえも、そこから出ているわけで。
その金額は、合計すると気が遠くなりそうな金額なわけで。
人がお金を支払うというのは、基本的に、支払う価値の有るものへの対価として支払うわけで。
一円だって無意味な無駄なものには支払いたくないのに。
私がどんなに嫌だと言っても、強制的に取られてしまうお金ならば。
支払っている税金や保険金に対する、充分なサービスを受けている、という実感をさせていただきたい。
大金を支払うことに対して納得のいく対価をいただきたい。
しっかりと、正確な知識を身につけ、こちらの質問には的確親切に答えていただき、給料泥棒丸出しのような対応はやめていただきたい。
至極分かりずらい表記・システムについて質問しているだけです。
私には、頭から慇懃無礼な対応をうけるいわれはございません。
怒り心頭に発するとは正しくこのこと。
私は怒りに自分の大切なエネルギーを使うのは嫌いです。
いい人ぶりたい訳ではなく、自分が心から疲れてしまうし、面倒だし、嫌な気持ちになるから。
そういう気持ちにさせる人も物事も大嫌いです。
意味も無く他人をアンハッピーな気分にさせないで欲しい。
極一部の理不尽なお役所仕事に対する憤りです。
全くもって、お役所の仕事全てを非難するものではございません。
本当に親身になって骨を折ってくださる職員の方がいらっしゃるのは重々感じております。
悪しからず。
あの。
貴方のお給料の一部は、わたくし達利用者が支払っている(もしくは支払っていた)税金・保険金等の一部から成り立っているわけで。
貴方が使っている机もパソコンも光熱費も、文房具一つでさえも、そこから出ているわけで。
その金額は、合計すると気が遠くなりそうな金額なわけで。
人がお金を支払うというのは、基本的に、支払う価値の有るものへの対価として支払うわけで。
一円だって無意味な無駄なものには支払いたくないのに。
私がどんなに嫌だと言っても、強制的に取られてしまうお金ならば。
支払っている税金や保険金に対する、充分なサービスを受けている、という実感をさせていただきたい。
大金を支払うことに対して納得のいく対価をいただきたい。
しっかりと、正確な知識を身につけ、こちらの質問には的確親切に答えていただき、給料泥棒丸出しのような対応はやめていただきたい。
至極分かりずらい表記・システムについて質問しているだけです。
私には、頭から慇懃無礼な対応をうけるいわれはございません。
怒り心頭に発するとは正しくこのこと。
私は怒りに自分の大切なエネルギーを使うのは嫌いです。
いい人ぶりたい訳ではなく、自分が心から疲れてしまうし、面倒だし、嫌な気持ちになるから。
そういう気持ちにさせる人も物事も大嫌いです。
意味も無く他人をアンハッピーな気分にさせないで欲しい。
極一部の理不尽なお役所仕事に対する憤りです。
全くもって、お役所の仕事全てを非難するものではございません。
本当に親身になって骨を折ってくださる職員の方がいらっしゃるのは重々感じております。
悪しからず。
本日、秋葉原で起こった通り魔事件。
丁度、事件直後の現場に居合わせました。
本日は、朝一番で家具屋さんへ行き。
薄型テレビを置くための台、コルビジェのバスキュラントチェア(ブラックレザー)、そしてアイリーングレイのサイドテーブルを購入して。
ファーストフードなどでさくっとランチをとってしまうかどうか迷ったのだけれど、早めの時間にテレビを見に行ってしまおうと駐車場を出て。
通常なら新宿の家電量販店に向かうところを、時間も有るし、秋葉原へ向かおうと決めて。
この時点でちょうど正午ごろ。
高速を使って秋葉原の駅周辺まで行き、大手家電量販店の駐車場に停めたかったのだけれど、タイミングを逃して、目抜き通りの方向へ車を進めたところ。
なぜか身振り手振りで進入禁止を示す人がいて、その場から強制的にUターンさせられた我々の目に飛び込んできたのは。
フロントガラスに大きな亀裂が入り、ライトやバンパーに大きな傷を負ったトラック。
それは、人でごった返す秋葉原で起こった通り魔事件に使われたレンタカートラック。
そして、その傍らには、倒れた人と、付き添う人々と、黒山の人だかり。
この時までは、そのトラックが人身の接触事故を起こしたのだとばかり思っていたのだけれど。
駐車場に車を停めて、改めて現場に戻ってみると、数人の警察が来て、「刺されてる、こっちも刺されてる・・・」との声が飛び交っていて。
「刺されている」って何・・・?
と、事態が理解出来なくて、やや混乱し始めた私の目の前に居た少年は。
背中を刺されたようで、顔面蒼白で、真っ白なシャツの背中は、一面深い血の色で染まっていて。
ガールフレンドとおぼしき少女が泣きそうな顔で付き添っていて。
泣きそうになりながら、彼女が書類に何かを記入していて。
その数メートル先には、仰向けで倒れて反応もなくなった男性が心臓マッサージをされていて。
その先々にも、倒れた人に数人の人が取り囲む小さな群れがいくつも連なっていて。
そしてその傍らには血だまりが出来ていて。
同様に野次馬として集まって来た人間から口々に出る言葉で、やっと「通り魔事件」がまさに目の前で起こった直後であることを理解し。
改めて現場を見回すと、人々の傷口から流れている血が、交通事故のものとは思えない量で。
現実が見えてくると、怖くてたまらなくなって。
その時点ではその犯人が捕らえられたかどうかもよく分からなくて、もしかしたらその人ごみの中のどこかに潜んでいるかも知れなく。
いつどこから狂気にのまれた犯人が襲ってくるやも知れず。
そして声も出ず、動くことも出来ない、生死をさまよっている人々を目の前に、興味本位でいつまでもその場に居る気にもなれず。
報道関係の人も集まってくる中、取り合えず、近くの家電量販店に移動したのですが。
その数十メートルの移動さえも恐ろしく。
誰彼もが挙動不審な様に見えて。
誰かが懐からナイフを取り出すのではないかと思うと、肌が粟立ち。
けれども
入った大手量販店では外の騒然とした様子が嘘のように、普通に賑わっていて。
そこに居た店員さんもそのことを知らず。
量販店の店頭ではミニライブなどが行われていて。
私は
目の前で起きたことが現実とは思えないような感覚で。
酷いとか、悲しいとか言うよりも何よりもショックで。
事件直後、量販店のテレビに映し出された速報では、10人が怪我、5人が心配停止だったのに。
家に着く頃には死者2名に変っていて。
夕方には死者5名。
そして直近で目にしたニュースでは死者7名まで増えていて。
日曜日の秋葉原。
デートだったり、お買い物だったり、友人や家族と連れ立って楽しむために来ている場所であの事件に巻き込まれたら。
家にいて、ご飯を食べて、テレビを見ているときにいきなり家族の訃報が飛び込んできたら。
朝、普通に出かけて行った家族が、二度と笑うことのない姿で戻って来る事になったとしたならば。
あの場に着くのがあと10分早かったとしたならば。
私か主人が、もしくは二人とも巻き込まれていた可能性も否定できず。
当たり前の日常を強制的に奪われる恐怖を目の当たりにして。
悲しくて、怖くて、ショックで。
こうしてタイプしながらも、思いがまとまりません。
他人の命を奪う権利は誰にも無い。
理由なんて聞く必要も無い。
犯人には、当然、重い刑が言い渡されるのだろうけれど。
その為に・・・7人の命が犠牲になった事を思うと。
絶対に解せない。
何よりも
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
丁度、事件直後の現場に居合わせました。
本日は、朝一番で家具屋さんへ行き。
薄型テレビを置くための台、コルビジェのバスキュラントチェア(ブラックレザー)、そしてアイリーングレイのサイドテーブルを購入して。
ファーストフードなどでさくっとランチをとってしまうかどうか迷ったのだけれど、早めの時間にテレビを見に行ってしまおうと駐車場を出て。
通常なら新宿の家電量販店に向かうところを、時間も有るし、秋葉原へ向かおうと決めて。
この時点でちょうど正午ごろ。
高速を使って秋葉原の駅周辺まで行き、大手家電量販店の駐車場に停めたかったのだけれど、タイミングを逃して、目抜き通りの方向へ車を進めたところ。
なぜか身振り手振りで進入禁止を示す人がいて、その場から強制的にUターンさせられた我々の目に飛び込んできたのは。
フロントガラスに大きな亀裂が入り、ライトやバンパーに大きな傷を負ったトラック。
それは、人でごった返す秋葉原で起こった通り魔事件に使われたレンタカートラック。
そして、その傍らには、倒れた人と、付き添う人々と、黒山の人だかり。
この時までは、そのトラックが人身の接触事故を起こしたのだとばかり思っていたのだけれど。
駐車場に車を停めて、改めて現場に戻ってみると、数人の警察が来て、「刺されてる、こっちも刺されてる・・・」との声が飛び交っていて。
「刺されている」って何・・・?
と、事態が理解出来なくて、やや混乱し始めた私の目の前に居た少年は。
背中を刺されたようで、顔面蒼白で、真っ白なシャツの背中は、一面深い血の色で染まっていて。
ガールフレンドとおぼしき少女が泣きそうな顔で付き添っていて。
泣きそうになりながら、彼女が書類に何かを記入していて。
その数メートル先には、仰向けで倒れて反応もなくなった男性が心臓マッサージをされていて。
その先々にも、倒れた人に数人の人が取り囲む小さな群れがいくつも連なっていて。
そしてその傍らには血だまりが出来ていて。
同様に野次馬として集まって来た人間から口々に出る言葉で、やっと「通り魔事件」がまさに目の前で起こった直後であることを理解し。
改めて現場を見回すと、人々の傷口から流れている血が、交通事故のものとは思えない量で。
現実が見えてくると、怖くてたまらなくなって。
その時点ではその犯人が捕らえられたかどうかもよく分からなくて、もしかしたらその人ごみの中のどこかに潜んでいるかも知れなく。
いつどこから狂気にのまれた犯人が襲ってくるやも知れず。
そして声も出ず、動くことも出来ない、生死をさまよっている人々を目の前に、興味本位でいつまでもその場に居る気にもなれず。
報道関係の人も集まってくる中、取り合えず、近くの家電量販店に移動したのですが。
その数十メートルの移動さえも恐ろしく。
誰彼もが挙動不審な様に見えて。
誰かが懐からナイフを取り出すのではないかと思うと、肌が粟立ち。
けれども
入った大手量販店では外の騒然とした様子が嘘のように、普通に賑わっていて。
そこに居た店員さんもそのことを知らず。
量販店の店頭ではミニライブなどが行われていて。
私は
目の前で起きたことが現実とは思えないような感覚で。
酷いとか、悲しいとか言うよりも何よりもショックで。
事件直後、量販店のテレビに映し出された速報では、10人が怪我、5人が心配停止だったのに。
家に着く頃には死者2名に変っていて。
夕方には死者5名。
そして直近で目にしたニュースでは死者7名まで増えていて。
日曜日の秋葉原。
デートだったり、お買い物だったり、友人や家族と連れ立って楽しむために来ている場所であの事件に巻き込まれたら。
家にいて、ご飯を食べて、テレビを見ているときにいきなり家族の訃報が飛び込んできたら。
朝、普通に出かけて行った家族が、二度と笑うことのない姿で戻って来る事になったとしたならば。
あの場に着くのがあと10分早かったとしたならば。
私か主人が、もしくは二人とも巻き込まれていた可能性も否定できず。
当たり前の日常を強制的に奪われる恐怖を目の当たりにして。
悲しくて、怖くて、ショックで。
こうしてタイプしながらも、思いがまとまりません。
他人の命を奪う権利は誰にも無い。
理由なんて聞く必要も無い。
犯人には、当然、重い刑が言い渡されるのだろうけれど。
その為に・・・7人の命が犠牲になった事を思うと。
絶対に解せない。
何よりも
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
先日
携帯に、突然舞い込んできた下記メール。
なにやら堅苦しく分かりづらい文面だけど・・・、こ・・・こりは
???
(株)SK●
担当 平塚と申します。
この度、現在お客様ご使用中の携帯端末より、
認可ネットワーク認証事業者センターを介入し、発信者端末電子名義認証し、以前ご登録いただいた、「総合情報サイト」から、無料期間中に退会処理がされてない為に、登録料金が発生し、現状未払いとなった状態のまま長期放置が続いておりますが、本通達より
再度これ以上放置が続きますと、利用規約に伴い、住民票取得、お客様の身辺調査了承後後日 回収機関により、調査費 回収費用含め、ご自宅、お勤め先、第三者への満額請求と代わります。
現在調査保留中の額面にて、処理をご希望であれば、早期に精算 退会処理データ抹消手続きをお願いします。
大事なお知らせですので、よくお読みになって当社の方まで早急にご連絡下さい。 03-524●-879●
担当 平塚迄 受付時間 平日 09:30〜18:00迄
尚 ご連絡なき場合 手続き開始ご了承とさせて頂きます。
心当たりが無くても胸に手を置いてもう一度考え直してしまう・・・。
怪しい&妖しいサイトにアクセスした事も、何かをダウンロードしたことも、ましてやインターネットアクセスしたことすら無い携帯で、いったい何か有ったっけ?
何も、無い・・・よね?
それでも、ドキドキしてしまって、直ぐに主人にメールを転送して内容を見てもらうと、3秒後には電話が掛かってきて。

「絶対に返信や電話をしないこと。」
「何についての請求か全く明記されていないから明らかに不正請求。」
「ランダムに送ってきているだけで貴女個人宛のメールではないから安心しなさい。」
「区の消費者センターを調べて、一報すること&必要であればアドバイスを貰いなさい。」

と、わずか三分、あっという間に問題は解決
事なきを得ました。
こういう悪質な詐欺に対する予備知識が少しは有ったし、私は一応「シロ」で、自分本人に送られてきたものにもかかわらず・・・、舞い上がぎみになってしまったので、恥ずかしいのだけれど。
誰とも連絡がつかない状況でこういう連絡が入って、しかもそれが自分宛ではなくて身内宛で、そしてもしもパートナーの素行に不明な部分があったり、心を開いてくれない年頃のお子さんがいる家庭だったら、すごく不安になってしまうかも・・・。
噂には聞いていて、頭では分かっていても、やっぱり焦る、ということが分かりました。
弱みや後ろめたさが全く無い人なんてきっとどこにも居ないし。
問題は
奴らがつけこむのが、センシティブな身内の問題だったり、人には相談しづらい内容のケースもあること。
包み隠さず相談できる、しっかりしていて、信頼できる人が身近に居ることの重要性を感じました。
人の不安心理をあざとく利用する、許しがたい行為
それにしても、腹立たしい
こんな下らない事を考えている暇があるなら、経済を回すことに頭使え!っちゅーの

プン


携帯に、突然舞い込んできた下記メール。
なにやら堅苦しく分かりづらい文面だけど・・・、こ・・・こりは
???(株)SK●
担当 平塚と申します。
この度、現在お客様ご使用中の携帯端末より、
認可ネットワーク認証事業者センターを介入し、発信者端末電子名義認証し、以前ご登録いただいた、「総合情報サイト」から、無料期間中に退会処理がされてない為に、登録料金が発生し、現状未払いとなった状態のまま長期放置が続いておりますが、本通達より
再度これ以上放置が続きますと、利用規約に伴い、住民票取得、お客様の身辺調査了承後後日 回収機関により、調査費 回収費用含め、ご自宅、お勤め先、第三者への満額請求と代わります。
現在調査保留中の額面にて、処理をご希望であれば、早期に精算 退会処理データ抹消手続きをお願いします。
大事なお知らせですので、よくお読みになって当社の方まで早急にご連絡下さい。 03-524●-879●
担当 平塚迄 受付時間 平日 09:30〜18:00迄
尚 ご連絡なき場合 手続き開始ご了承とさせて頂きます。
心当たりが無くても胸に手を置いてもう一度考え直してしまう・・・。
怪しい&妖しいサイトにアクセスした事も、何かをダウンロードしたことも、ましてやインターネットアクセスしたことすら無い携帯で、いったい何か有ったっけ?
何も、無い・・・よね?
それでも、ドキドキしてしまって、直ぐに主人にメールを転送して内容を見てもらうと、3秒後には電話が掛かってきて。

「絶対に返信や電話をしないこと。」
「何についての請求か全く明記されていないから明らかに不正請求。」
「ランダムに送ってきているだけで貴女個人宛のメールではないから安心しなさい。」
「区の消費者センターを調べて、一報すること&必要であればアドバイスを貰いなさい。」

と、わずか三分、あっという間に問題は解決

事なきを得ました。
こういう悪質な詐欺に対する予備知識が少しは有ったし、私は一応「シロ」で、自分本人に送られてきたものにもかかわらず・・・、舞い上がぎみになってしまったので、恥ずかしいのだけれど。
誰とも連絡がつかない状況でこういう連絡が入って、しかもそれが自分宛ではなくて身内宛で、そしてもしもパートナーの素行に不明な部分があったり、心を開いてくれない年頃のお子さんがいる家庭だったら、すごく不安になってしまうかも・・・。
噂には聞いていて、頭では分かっていても、やっぱり焦る、ということが分かりました。
弱みや後ろめたさが全く無い人なんてきっとどこにも居ないし。
問題は

奴らがつけこむのが、センシティブな身内の問題だったり、人には相談しづらい内容のケースもあること。
包み隠さず相談できる、しっかりしていて、信頼できる人が身近に居ることの重要性を感じました。
人の不安心理をあざとく利用する、許しがたい行為

それにしても、腹立たしい

こんな下らない事を考えている暇があるなら、経済を回すことに頭使え!っちゅーの


プン



日々更新されるニュースを見聞きしていて。
良いニュースにも悲しいニュースにもそれなりの事は感じて考えている。
けれど、
物事には本当に様々な側面があり、色々な立場の人、考え方の人がいるのだし、私は問題となっている諸々の事に関して詳しい方ではないだろうし、正確なことが書けるかどうか全く自信が無いので、不特定多数の方に見ていただく可能性のある場所での感想文を控えていたのだけれど。
これは・・・
なんということだろう。
激しい憎悪を抑えることが出来ない。
文面を読むだけで、考えるだけで吐き気がし、とてもその動画を見ることは出来ない。
あまりにありえない行為なので、ここに怒りをぶつけさせて貰う。
恐らく、多くの人は子犬、子猫、赤ん坊など、無垢で未熟なものに対して無意識に保護意識が働くのではないかと思う。
だから、あんな小さな○○に対して・・・、まだ夢も未来もある○○になんて残酷な事をするのだ・・・、という憤りは極自然な感情で、私もそう感じるのだけれど、問うべき所はそこではなくて。
生命 ( というあまりに広義な言葉で表現してしまうと、「では我々が日々行っている殺生は許されるもの?」というところまで含まれてしまうので難しいのだけれど ) の重みが全く分かっていない人間がいることが、こういったことを罪の意識も無く行える人間がいることが、やはり信じがたい。
世の中には様々な過酷な環境が存在していて、平凡な私が想像も出来ない残酷な日常に直面している人がいて・・・、誰しもが、生まれてきたこと、これまで何とか生きてこられたことに素直に感謝できる環境にあるとは思ってはいない。
けれど
明らかに無力のもの
明らかに争う意思の無いもの
情け・助けを請うもの
自分の判断・意思で行動することができないもの
自分に壊滅的な危害を加える可能性が無いもの
に対する、無差別的暴力行為を容認する気には全く持って、絶対に絶対に・・・絶対になれない。
私は、動物も子供も大好きだし、自分自身が犬を家族として迎えているから、特に今回のニュースに感情が高ぶってしまうことは否定できないのだけれど・・・。
でも、
彼は、同じことが、自分の大切な人に出来るのか。
もしも、
彼に何らかの事情があり、周りの人々に対して、切実に大切な存在であると日々感じることが出来ないとしても、自分の人生に重大な関わりを持った生命に対して同じことが出来るのか。
たとえば
我子、母親、父親、恋人、配偶者、祖母、祖父、親族、親友、ペット・・・を、
怯えて泣いて怖がる生命を、
笑いながら、絶対に再起不能な崖下に投げ捨てることがきるのか。
しかも、
命乞いをする言葉すら持たない生命によくも、よくもそんなことが出来るものだ。
・・・あぁ、考えれば考えるほど信じられない。
そんなことが出来るくらいなら、自分自身が崖から泣きながら飛び降りる画像を残して、世界に衝撃を与えたらどうか?
彼自身が身をもって犠牲となり、その画像を世界に配信すればいい。
そして今、
これだけの反響の大きさに、吾身の未来が奪われることを想像して恐怖に震えたらいい。
そのくらいのことは思ってしまうくらいの、激しい憎しみを感じてしまう。
彼にそれなりの辛いバックグラウンドがあったとしても・・・
私には、個人的には、受け入れることは到底出来ない。
勿論
このニュース以上に、身体が震え、身の毛も弥立つ震撼する出来事、というのは沢山ある。
ここに書かないだけで、家内では、ここにはとても書くことが出来ない様な暴言を吐いていることもある。
けれど、
今回は明らかに擁護できる出来事ではない、と感じたので、書かせていただきました。
*****************
(ここからは同日加筆です)
スーパー余談なのですが・・・
先日、父から何度も電話が入っていたので、出掛けにコールバックすると、彼がちょっと困っていて力を貸してほしい、というか、私が持っているものを貸してほしい、とのこと。
しかも、タイムリミットが今日の今日で、翌日の朝には使いたいとのこと。
「いやぁ、悪いね、本当に悪いね、ごめんね
」
・・・等と言うので、あまり嫌味なことも言えなかったのだけれど。
正直言うと
「色々と余裕が無い状況で、急いでいるのは分かるのだけれど、今日の今日っていうのは止めてよね
?暇人に見えると思うけれど、私にだって色々な都合もあるし・・・出かける間際にそんなに色々なものを要求されても・・・そんなに全てのものが整理整頓されているわけではないので、本当に、困るんですけど、もぅ・・・
」
と、喉まで出掛かったのだけれど・・・
まぁ、結局は言えなくて、自分の準備と、出かける前のぬんた
のお世話と、父の頼まれごととを慌てて探して、出かけて。。。
そして
都内の待ち合わせ場所に来た父を見て。
自分の父親だから、一瞬で彼を見つけられて、勿論見間違う訳もないのだけれど。
明らかに数年前と比べると老けていて。
うがった見方をするのであれば・・・、恐らくここ数年の苦労のあとが顕著に表れていて。
私の周りで多くの物事が過ぎ去って行くように、父の周りでも同じように時間が過ぎていて。
私の知っている父親、なんだけれども、なんというか、おじいちゃま
に似てきていて。
彼を見つけた瞬間に、涙が出そうになった。
老けていく親を見て切ない、というのもあるのだけれど・・・
「パパ、本当に・・・有難いなぁ・・・」という感謝の気持ちがあふれてきて。
父の、家族を支えるため(プラス自分のプライドのため)の身を削るような苦労の結果、今、私がここに至っているのだなぁ、と思い。
私がその日の朝に感じた苛立ちなんて・・・父がこれまでしてくれたことを考えれば、ゴミみたいに小さなことで。
どんなに仕事で追われていても私が病気で苦しめば真夜中でも救急病院に連れて行ってくれたこと。
頭が悪くて、覚えが悪い私に繰り返し繰り返し物事を教えてくれたこと。
運動神経の無い私くて何度もずっこける私に自転車の乗り方を毎週毎週教えてくれたこと。
何があっても、呆れながらも、それでも見捨てずに力になってくれたこと。
親としての役割、言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、きっと自分の‘何か‘を失いながらしてくれたことで。
両親にはどれだけ感謝しても仕切れないのに、些細なことでいらだっていた自分はとても小さくて、恥ずかしく。
その後
父と待ち合せた駅から東京メトロ銀座線に一緒に乗り、渋谷まで隣に座っている間に、ぽつぽつと世間話をして。
自分だって、色々と大変なのに。
「お前、頑張れよ。
身体を大事にしろよ、もっとご飯
食べて太ったほうがいいぞ〜。
家は(実家は)皆元気だから心配しないでな。
目黒の(主人の)ご両親によろしく言ってな
」
そう言って、父が、私の肩を叩いて、改札の向こうに歩いてゆく姿を見て。
涙が零れ落ちる寸前まで行き。
「パパ、本当に有難う、有難う、・・・本当に有難うね。
私はパパとママのおかげで今が在るんだ・・・。」
と、切に思うけれど、照れがありとても口に出しては言えないので、心の中で呟き、手を振って見送った。
**********************
だからこそ。
どんな生命にだって、受け継がれてきたものがあるのに。
命を受け継ぐことには、沢山の犠牲が払われているのに。
それを無視する暴力行為は許しがたい。
良いニュースにも悲しいニュースにもそれなりの事は感じて考えている。
けれど、
物事には本当に様々な側面があり、色々な立場の人、考え方の人がいるのだし、私は問題となっている諸々の事に関して詳しい方ではないだろうし、正確なことが書けるかどうか全く自信が無いので、不特定多数の方に見ていただく可能性のある場所での感想文を控えていたのだけれど。
これは・・・
なんということだろう。
激しい憎悪を抑えることが出来ない。
文面を読むだけで、考えるだけで吐き気がし、とてもその動画を見ることは出来ない。
あまりにありえない行為なので、ここに怒りをぶつけさせて貰う。
恐らく、多くの人は子犬、子猫、赤ん坊など、無垢で未熟なものに対して無意識に保護意識が働くのではないかと思う。
だから、あんな小さな○○に対して・・・、まだ夢も未来もある○○になんて残酷な事をするのだ・・・、という憤りは極自然な感情で、私もそう感じるのだけれど、問うべき所はそこではなくて。
生命 ( というあまりに広義な言葉で表現してしまうと、「では我々が日々行っている殺生は許されるもの?」というところまで含まれてしまうので難しいのだけれど ) の重みが全く分かっていない人間がいることが、こういったことを罪の意識も無く行える人間がいることが、やはり信じがたい。
世の中には様々な過酷な環境が存在していて、平凡な私が想像も出来ない残酷な日常に直面している人がいて・・・、誰しもが、生まれてきたこと、これまで何とか生きてこられたことに素直に感謝できる環境にあるとは思ってはいない。
けれど
明らかに無力のもの
明らかに争う意思の無いもの
情け・助けを請うもの
自分の判断・意思で行動することができないもの
自分に壊滅的な危害を加える可能性が無いもの
に対する、無差別的暴力行為を容認する気には全く持って、絶対に絶対に・・・絶対になれない。
私は、動物も子供も大好きだし、自分自身が犬を家族として迎えているから、特に今回のニュースに感情が高ぶってしまうことは否定できないのだけれど・・・。
でも、
彼は、同じことが、自分の大切な人に出来るのか。
もしも、
彼に何らかの事情があり、周りの人々に対して、切実に大切な存在であると日々感じることが出来ないとしても、自分の人生に重大な関わりを持った生命に対して同じことが出来るのか。
たとえば
我子、母親、父親、恋人、配偶者、祖母、祖父、親族、親友、ペット・・・を、
怯えて泣いて怖がる生命を、
笑いながら、絶対に再起不能な崖下に投げ捨てることがきるのか。
しかも、
命乞いをする言葉すら持たない生命によくも、よくもそんなことが出来るものだ。
・・・あぁ、考えれば考えるほど信じられない。
そんなことが出来るくらいなら、自分自身が崖から泣きながら飛び降りる画像を残して、世界に衝撃を与えたらどうか?
彼自身が身をもって犠牲となり、その画像を世界に配信すればいい。
そして今、
これだけの反響の大きさに、吾身の未来が奪われることを想像して恐怖に震えたらいい。
そのくらいのことは思ってしまうくらいの、激しい憎しみを感じてしまう。
彼にそれなりの辛いバックグラウンドがあったとしても・・・
私には、個人的には、受け入れることは到底出来ない。
勿論
このニュース以上に、身体が震え、身の毛も弥立つ震撼する出来事、というのは沢山ある。
ここに書かないだけで、家内では、ここにはとても書くことが出来ない様な暴言を吐いていることもある。
けれど、
今回は明らかに擁護できる出来事ではない、と感じたので、書かせていただきました。
*****************
(ここからは同日加筆です)
スーパー余談なのですが・・・
先日、父から何度も電話が入っていたので、出掛けにコールバックすると、彼がちょっと困っていて力を貸してほしい、というか、私が持っているものを貸してほしい、とのこと。
しかも、タイムリミットが今日の今日で、翌日の朝には使いたいとのこと。
「いやぁ、悪いね、本当に悪いね、ごめんね
」・・・等と言うので、あまり嫌味なことも言えなかったのだけれど。
正直言うと
「色々と余裕が無い状況で、急いでいるのは分かるのだけれど、今日の今日っていうのは止めてよね
?暇人に見えると思うけれど、私にだって色々な都合もあるし・・・出かける間際にそんなに色々なものを要求されても・・・そんなに全てのものが整理整頓されているわけではないので、本当に、困るんですけど、もぅ・・・
」と、喉まで出掛かったのだけれど・・・
まぁ、結局は言えなくて、自分の準備と、出かける前のぬんた
のお世話と、父の頼まれごととを慌てて探して、出かけて。。。そして
都内の待ち合わせ場所に来た父を見て。
自分の父親だから、一瞬で彼を見つけられて、勿論見間違う訳もないのだけれど。
明らかに数年前と比べると老けていて。
うがった見方をするのであれば・・・、恐らくここ数年の苦労のあとが顕著に表れていて。
私の周りで多くの物事が過ぎ去って行くように、父の周りでも同じように時間が過ぎていて。
私の知っている父親、なんだけれども、なんというか、おじいちゃま
に似てきていて。彼を見つけた瞬間に、涙が出そうになった。
老けていく親を見て切ない、というのもあるのだけれど・・・
「パパ、本当に・・・有難いなぁ・・・」という感謝の気持ちがあふれてきて。
父の、家族を支えるため(プラス自分のプライドのため)の身を削るような苦労の結果、今、私がここに至っているのだなぁ、と思い。
私がその日の朝に感じた苛立ちなんて・・・父がこれまでしてくれたことを考えれば、ゴミみたいに小さなことで。
どんなに仕事で追われていても私が病気で苦しめば真夜中でも救急病院に連れて行ってくれたこと。
頭が悪くて、覚えが悪い私に繰り返し繰り返し物事を教えてくれたこと。
運動神経の無い私くて何度もずっこける私に自転車の乗り方を毎週毎週教えてくれたこと。
何があっても、呆れながらも、それでも見捨てずに力になってくれたこと。
親としての役割、言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、きっと自分の‘何か‘を失いながらしてくれたことで。
両親にはどれだけ感謝しても仕切れないのに、些細なことでいらだっていた自分はとても小さくて、恥ずかしく。
その後
父と待ち合せた駅から東京メトロ銀座線に一緒に乗り、渋谷まで隣に座っている間に、ぽつぽつと世間話をして。
自分だって、色々と大変なのに。
「お前、頑張れよ。
身体を大事にしろよ、もっとご飯
食べて太ったほうがいいぞ〜。家は(実家は)皆元気だから心配しないでな。
目黒の(主人の)ご両親によろしく言ってな
」そう言って、父が、私の肩を叩いて、改札の向こうに歩いてゆく姿を見て。
涙が零れ落ちる寸前まで行き。
「パパ、本当に有難う、有難う、・・・本当に有難うね。
私はパパとママのおかげで今が在るんだ・・・。」
と、切に思うけれど、照れがありとても口に出しては言えないので、心の中で呟き、手を振って見送った。
**********************
だからこそ。
どんな生命にだって、受け継がれてきたものがあるのに。
命を受け継ぐことには、沢山の犠牲が払われているのに。
それを無視する暴力行為は許しがたい。
プロフィール






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